「渡辺上人に宜敷くな」

令和元年9月1日
中野浄蓮

 当教会は、「地涌題目奉唱道場」です。題目奉唱の開祖「覺證院日龍上人」が生前住まわれていた「月の輪草庵」には、現在日龍上人の御廟があります。今回は、その月の輪の先師上人方のお話を致します。


 昭和49年(1974年)12月8日。月の輪草庵の先師であり身延山久遠寺で布教部長をされていた日高白象上人が、釈尊像の開眼法要式をなされました。その式に、私も修行の先師T上人と法友2名と共に参席させていただきました。
 その翌日のことです。やはり修行の先師K上人が八王子に居られる事が分りましたので、身延の帰途に上人の許へ伺いました。
 K上人は粗末な板敷の部屋にベッド一台を置き、テレビでレスリングを御覧になっていました。皆で黙って座っていると、K上人が一言。
「これは、勝ち、負けが分るんだよな」
 それから、また沈黙が続きました。K上人のお世話をしているらしい男性が部屋に来てお茶を置いて帰った時も、沈黙は続いていました。その時の私たちは、声を出さずに心で交流していたのです。
 しばらくしてT上人は、
「それぢゃあ、又おあいしましょう」
と言われ、立ち上りました。K上人は黙って部屋の入口の椅子に腰掛けられました。未熟な私は口を開く余裕もなく、手土産に用意した菓子折を差し出しました。その時です。
「渡辺上人に宜敷くな」
 突然、K上人が言われたのです。私は「エッ」と思いました。
 私の恩師渡辺上人は、遷化されてもう5年も経っているのです。

「お題目を唱えれば会えるだろう」

 K上人は言われました。少し経って、ようやく私はその言葉の意味が分り、「ハイ」と答えました。

 生前、恩師渡辺上人はよく

「お前の唱えるお題目の中に私はいるからな」

と話されていたのです。
 この時K上人と交わした短い会話が、お別れの言葉となりました。


 年が明けて昭和50年1月1日。私は信徒数名と共にG県H寺のT上人の許に伺いました。
 T上人と法友の方々と歓談していた時でした。私は突然

「K上人をどうする」

と声を上げ、烈しくT上人を問い詰めたのです。傍にいた法友達は、あっけにとられていました。そのような乱暴な口を私がT上人にきいた事は、今までになかったのです。自分でも何故だか分らなかったのですが、一応落ち着くと私はT上人の許を辞しました。
 しかし、それからも私は元日の事が気になって仕方がありませんでした。それで数日してK上人の在所に電話をかけたのです。すると
「K上人は1月1日に亡くなられました」
と言われたのです。
 月の輪の先師上人方は既に御存じだろうと躊躇したのですが、T上人にその旨を伝えました。T上人は他の先師上人方と共に、K上人の御遺骨を月の輪に持参なされました。其の後、月の輪草庵にて葬儀が厳修され、K上人の御遺骨は開祖覺證院日龍上人の御廟の許に埋葬されました。


 私がK上人とお会いしたのは、恩師渡辺上人の遷化の時と本葬の時、そして八王子にお伺いした時の計3度だけでした。その中で強烈な思い出は、妙昌寺で恩師渡辺上人の遷化の際、初めてお会いしたのに

「あ、中野さんとは会っているよ」

と言われた事なのです。
 恩師渡辺上人とお別れしてから50年、K上人とお別れしてから44年経ってしまいましたが、現在の私は

「お題目をお唱えすれば会えるんだよな」

と言って下さった恩師渡辺上人、先師K上人の方々に見守られています。
 お上人方の仰っしゃるお言葉は真実なのだと感じながら、日々唱題修行を続けているのです。











昭和50年1月12日。得度剃髪式の時の写真です。
K上人はこの年の元日に亡くなられたため、来ていただく事は叶いませんでした。

2019年09月01日