「臨終のことを習うて」

令和元年10月1日
中野浄蓮

 米寿を過ぎ卒寿を迎えた頃より、我が家では子供達と共に私の終活が始まりました。
 初めは生きている内から葬儀のこと、遺言のこと等を話し合うのは何となく変な感じがしてあまり気持ちよくありませんでした。
 ですが、裡の者達は他の寺院の葬儀に際して実際にお手伝いなどした事がありません。私が他界した時には困るのではとも考えていたので、積極的に終活に取り組むようになりました。他の寺院からいただいた葬儀の差定(式次第)や遷化の報せ等、参考になるものも前々から集めて置いてあります。

 又、自分自身の心がけとしては、一人夕勤行の時には「宗定 日蓮宗法要式」 を読み、その中にある「別願文」を唱えました。そして、日蓮大聖人の御遺文で生死に関したものを拝読し、心に入れるようにしておりました。


 ある時、その御遺文の中の「妙法尼御前御返事」の一節
 「夫れおもんみれば…人の寿命は無常なり。出づる気(いき)は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬にあらず。賢きも、はかなきも、老いたるも若きも、定めなき習いなり。されば先づ臨終の事を習うて後に佗事を習うべし」
の文が心に残りました。「臨終の事を習う」とはどのような事か私の胸にはっきりと落ちなかったからです。私は長い間考えました。そしてようやく胸に落ちたのは
「『臨終の事を習う』というのは、『人は必ず死す』と言う事を覚知することだ」
と言うことでした。それと同時に、
「自分の死については考えられるが、『人皆死す』と言う事まで本当に知っているか」
とも思いました。その時の私にはまだ考えの及ばない事でした。


 そして、現在になって私の思い及んだ事は、
「仏教の根本に流れる『成仏』という思想は釈尊の広大な慈悲の心が源であり、釈尊は『人皆必ず死す』という事を覚知なされ、人々が成仏できる教へを説かれたのだ」
という事でした。
 私は釈尊の説かれた法華経を信じ、心から「南無」し、「人皆死す」を覚知して臨終を迎える事を願っております。法華経にお会いできた事に感謝しながら日々を送っているのです。







私が書き写しました「別願文」です。

2019年10月01日